米国のピックルボール専門メディア The Dink が2026年8月6日に公開した記事が、プロ選手の「裏側」に光を当てた。トップ選手の一部は、専属シェフ・栄養士・マッサージセラピスト・ストレングスコーチを抱え、その「側近チーム(entourage)」に月5桁ドル——1ドル150円換算で月150万円から数百万円規模——を投じているという。記事を書いたのは、元メジャーリーグ(ミネソタ・ツインズ)のストレングスコーチで、現在はピックルボール選手を指導するコナー・デリクソン氏。5年前には存在しなかった体制が、いまや勝敗を分ける前提になりつつある、という内容だ。
ラケットを握ったことがある人ほど、この話は遠い世界に聞こえるかもしれない。だが金額の裏には、日本の競技者や普及に関わる人が知っておくと視界が変わる構造がある。順番に見ていく。
専属シェフから血液検査まで、月5桁ドルが賄う「側近チーム」の中身
デリクソン氏が挙げる支出項目は具体的だ。専属シェフ、栄養士、マッサージセラピスト、ストレングスコーチ、そして機能性医療やペプチドまで。加えて回復環境として、ガレージに置いた携帯型の冷水浴(コールドプランジ)、着圧ブーツ、四半期ごとの血液検査が並ぶ。血液検査で微量栄養素の不足を先回りして把握し、故障が起きる前に手を打つ——という発想だ。
記事はアナ・ブライト、ヘイデン・パトリキン、タイラ・ブラック、トラビス・レッテンマイヤー、キャサリン・パランテューといった選手を、こうした専門スタッフの支援を受けている例として名前を挙げている。専門スタッフが大会ごとに帯同するというから、これは一過性の贅沢ではなく、シーズンを通した運営コストだ。月5桁ドルという水準は、下限の1万ドルでも年間12万ドル(約1,800万円)に達する。
「怪我は減給」に変えたのは、1.8億円級の契約と賞金の設計
なぜここまでするのか。記事が挙げる第一の理由は「お金が本物になった」ことだ。デリクソン氏は、契約とスポンサー料がかかっている状況では「肉離れは煩わしいだけでなく、減給を意味する」と表現する。故障が収入に直結する構造になったから、体そのものが投資対象になった、という筋道である。
この背景は数字で裏づけられる。2026年のMLPドラフトでは、セントルイス・ショックがアナ・ブライトの指名に123万ドル(約1.8億円)を投じ、リーグ史上最高額を記録した。ニュージャージーの球団はジョージャ・ジョンソンに80万ドル(約1.2億円)を払っている。注意したいのは、この指名料はリーグ(MLP)に支払われる金額で、選手本人の年俸そのものではない点だ。それでも、選手一人にこれだけの資本が動く競技になった事実は動かない。
運営側の分配も膨らんでいる。PPA・MLPを統括するUPAは2026年、国内1,500万ドルと国際500万ドルを合わせた計2,000万ドル(約30億円)規模の賞金を掲げた。保証年俸中心から賞金比重を高める設計への移行で、一部では報酬減の議論も起きている。勝てば伸び、負ければ縮む——収入の変動が大きくなるほど、故障を避け続けられる体の価値は上がる。APPで育ちUPAで稼ぐという選手の流れも、この報酬構造の変化と地続きだ。
年25大会という日程が、技術と同じ重みを体力に持たせた
第二の理由は日程の過密さだ。トップ選手はPPAとMLPの両サーキットをまたいで、年間およそ25大会をほぼ通年で戦う。短距離の切り返しと急停止を繰り返す競技特性を、年25回の本番でこなすには、才能だけでは足りず「壊れにくさ」が要る。回復設備が生活の一部になる理由がここにある。
第三に、トップ層の技術差が縮んだことがある。デリクソン氏は「上位の誰もがプレーできる。技術が横並びになると、差をつける場所は下流に移る」と書く。ここでいう下流とは、栄養・回復・コンディショニングのことだ。ショットの精度で抜きん出るのが難しくなったぶん、試合に出続けられる身体の管理が勝負どころになった。金額が大きく見える支出も、勝敗を分ける限られた変数への投資として整理すると筋が通る。
テニスが半世紀かけた「陣営」化を、ピックルボールは5年で追った
ここからは筆者の見立てだ。専属コーチにフィジカルトレーナー、栄養士まで選手が抱える体制は、テニスやゴルフでは長い時間をかけて標準化してきた。テニスでプロ選手が専属トレーナーを帯同させる文化が広がったのは1980年代以降で、四大大会を軸にした賞金・ランキング制度が整うのと歩調を合わせた。数十年かけて積み上がった「陣営(チーム)で戦う」形を、ピックルボールは商業化のスピードに引っ張られて5年ほどで輸入している。
この速さには危うさもある。テニスは選手個人が賞金とスポンサー料で陣営を維持する構造が長く続いてきたが、ピックルボールのMLPは球団が選手を指名して報酬を保証する仕組みで、資本の入り方が異なる。保証から賞金へと重心が動けば、側近チームを維持できる選手とそうでない選手の差は開く。回復設備や専門スタッフが「勝てる選手だけがさらに勝つ」循環を強めると、競技の裾野より頂点の格差が先に固まりかねない。アジアでも、シンガポール最大のスポーツイベント運営会社がPPA Tour Asiaの運営を多年契約で引き受けるなど、プロ興行に資本が本格的に入り始めた動きが出ている。商業化の波は米国だけの話ではない。
日本のプレーヤーと普及関係者が、今この話から拾えること
日本の競技環境は、月5桁ドルの側近チームとはまだ距離がある。それでも拾える論点は二つある。
一つは、コンディショニングの優先順位だ。プロが行き着いた先が「ショットの練習量」ではなく「回復と栄養と故障予防」だった、という事実は示唆的だ。週末プレーヤーが専属シェフを雇う必要はないが、試合が続く時期の睡眠・水分・ウォームアップとクールダウンを整えるだけでも、肉離れや足首の捻挫といった典型的な故障は減らせる。冷水浴や着圧ブーツより先に、練習後のストレッチと十分な休養日という「無料でできる回復」がある。
もう一つは、日本市場の広がり方だ。米国ではMLPがシニア世代の試合まで放送に乗せる興行に変え、平日に時間のある層を競技へ取り込んでいる。MLPがシニアをプロ興行に変えた動きは、健康志向とコミュニティを軸に伸びる日本の普及ともつながる話だ。プロの過熱と、地域クラブの草の根の楽しさは、同じ競技の別の入り口として両立させたい。
まとめ
The Dink の記事が描いたのは、月5桁ドルの専属チームと四半期ごとの血液検査という、5年前には存在しなかった光景だ。その背景には、123万ドルの指名料や約30億円規模の賞金という、収入と故障が直結した競技構造がある。日本のコートでこの金額をそのまま追う必要はない。ただ、プロが最後にたどり着いた答えが「回復と体調管理」だったという一点は、明日の練習後にストレッチを一つ足す理由になる。
参照元
- The Dink Pickleball「The ‘Entourage Era’: 3 Signs Pro Pickleball Is a Serious Sport」(2026-08-06) https://www.thedinkpickleball.com/the-entourage-era-3-signs-pro-pickleball-is-a-serious-sport/
- Pickleball.com「Anna Bright: The most expensive pickleball player ever」 https://pickleball.com/news/anna-bright-the-most-expensive-pickleball-player-ever
- Pickleball.com「UPA works to extend pro contracts, will pay out millions in prize money」 https://pickleball.com/news/upa-works-to-extend-pro-contracts-will-pay-out-millions-in-prize-money

